御徒町凧 OFFICIAL SITE

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詩

詩篇麻雀論考

例えば夕方に息抜きと称し雀荘へ駆け込む

正しくは吸い寄せられるもしくは飲み込まれる

訪れた雀荘には当然麻雀卓が並べられておりそこには何名かの客がいる

客がいない場合でもメンバーと呼ばれる店員がいていつでも卓が立っている

ゲームが進行している卓のことを立つというのだが

まずは立っている卓を確認してそこにメンバーが入っていれば

早いタイミングで入れ代わってもらうことができる

ましてやゲームも序盤で点棒移動が少なければ即交代もあり得る

麻雀の得点は棒状の物でやり取りされるので点棒という

もう少し長ければ易者が占いにでも使えそうな代物だ

俺には行きつけの飲み屋はないが行きつけの麻雀荘がいくつかある

店に入るとメンバーが名前を呼んで出迎えてくれる

お飲物は? と尋ねられおしぼりを出されるのだ

そしてしばらくすると「ご案内です」と言われ卓へ案内される

最近は配牌も全自動で行われ、座ると同時に牌が配られる

新規で卓を立てる場合には場所決めをし、座る位置が割り振られる

約八十センチ四方の正方形の卓を囲むように四人がそれぞれに座る

ゲーム毎に親を決めるのだが親番は全員に二回ずつ回るようになっており

初めの親は「起親」もしくは「出親」と呼ばれる

そしてそこが東西南北の東「トンチャ」ということになり

右回りに「南」「西」「北」と各座席に方角が与えられる

案内された卓に先客がいる場合は欠員の場所に入れられるか

それまで打っていたメンバーが入れ代わってくれてゲーム開始となる

開始とともに伏せられた牌をめくり配牌を確認する

十四枚の牌を「役」と呼ばれる決められた形に揃えるのが麻雀の目的であり

アガりは四人のうちで一番早く達せられた者にしか訪れない

持論だが、麻雀で一番高揚する瞬間は

この牌配をめくる瞬間なのではないかと思う

ましてや赤入り麻雀だとその興奮は倍増する

「牌配に一喜一憂するな」とは先人の教えであるが

まるで誕生の時のように世界が肌に触れる純粋な緊張感がある

もちろん牌勢の善し悪しによる感じ方の差はあれど

それがどんなクソ牌配であろともやはりあの感覚はなくならない

牌配を取りそこから完成系を想定し

相手(麻雀では他家という)の手組と打点を想定しながら

一牌ずつツモり残す牌と捨てる牌を選択する

それはそのまま出会いと別れの比喩となっていて

理想の如何にも関わらず時と共に組織は変化を余儀なくされる

新しい可能性と放銃のリスクを天秤にかけながら

取捨選択はとどまることを知らずに進んでゆく

どんなに自分の手が高打点であろうと

プロも舌を巻くような流麗な手組であろうと

他家のチンケなアガリに先を越されてしまっては

それまでの努力や忍耐が日の目を見ることはない

負け惜しみとばかりにアガれもしなかった手配を開示したり

他家のアガリを批判したりするのはマナ悪といって

麻雀三大タブーの一つと数えられてしまうほどの愚挙とされる

どのような競技であれ

極めるほどに勝負は自分との闘いへと推移してゆくものだが

麻雀も多聞に漏れずまさにそうで

特に麻雀は所詮遊戯であるが故

自分との向き合い方だけでなく

金銭感覚を軸にした社会性、複数人と一定の時間を共有する社交性

それらを複合した精神力及びバランス感覚が試される舞台なのである

ゲームそのものが洗練されているのもあり

場を制するには五感をフル稼働させた集中力が必要となり

のめり込むほどに脳は興奮状態となる

腕の立つ者同士で卓を囲めば相乗効果により

一打一打の打牌から澱みが消え去ってゆき

ビンテージのラディックをリムショットさせたような

鼓膜を面全体で揺さぶる乾いた牌の音だけが天井を抜けてゆくのである

東から太陽が昇り

南の空を揺蕩い

西の海に落ちる

北の地平は受け入れるが如く黙し

ジリジリと自転する大地が方位を変えてゆく

その理に説明がいらぬように

人は河に牌を並べてゆく

水が満ちれば場は流され

新しい季節が過ぎ去った季節を愛でるかのように

賽は振られ

一枚ずつ牌は再び配される

麻雀のルールに時間という概念は組み込まれていない

そこではただ物質の流転に合わせて

時間が付随しているだけだ

私たちはそれぞれ肉体を有してはいるが

肉体はもはや方位の比喩でしかなく

護るべきものがあるとしたら

ただ見つめるという行為のみである

見つめることの先に手があり指があり

感触の後に判断があるのである

喉が渇けば梅コブ茶をすすり

腹が減ればペヤングを食する

だがそれは麻雀外の事象であり

肉体を保つためだけの行為であると知って然るべきである

そこに得る物があるとしたら天運地運と称される

己にまつわるエネルギーの澱みを

森羅万象とどのように関わらせてゆくかを推し量り

卓外に戻った折の指針の一つにすることぐらいではないだろうか

肉体が麻雀と緊密にいられる時間はおおよそ四時間である

と知りつつも八時間、十二時間という四の倍数が誘引する場の磁力

できることなら一定の状態を強要されるリスクを振りほどき

それぞれが形成した安楽の地へと帰するべきである

精神は時に横暴である

故に肉体と精神のいずれかに優位性を与えるべきではない

と俺も考えなくはなくなった



明け方の空には金星が輝いている

新聞配達のバイクの音

始発電車の気配

日の出の直前が

もっとも冷え込む時刻である

鼓膜の奥底に響く牌の音が

眠りを妨げている

もしくは

深い眠りへと誘っている





これをもって詩篇麻雀論考とする

二〇一九年〇二月一七日(日)

詩篇麻雀論考

例えば夕方に息抜きと称し雀荘へ駆け込む

正しくは吸い寄せられるもしくは飲み込まれる

訪れた雀荘には当然麻雀卓が並べられておりそこには何名かの客がいる

客がいない場合でもメンバーと呼ばれる店員がいていつでも卓が立っている

ゲームが進行している卓のことを立つというのだが

まずは立っている卓を確認してそこにメンバーが入っていれば

早いタイミングで入れ代わってもらうことができる

ましてやゲームも序盤で点棒移動が少なければ即交代もあり得る

麻雀の得点は棒状の物でやり取りされるので点棒という

もう少し長ければ易者が占いにでも使えそうな代物だ

俺には行きつけの飲み屋はないが行きつけの麻雀荘がいくつかある

店に入るとメンバーが名前を呼んで出迎えてくれる

お飲物は? と尋ねられおしぼりを出されるのだ

そしてしばらくすると「ご案内です」と言われ卓へ案内される

最近は配牌も全自動で行われ、座ると同時に牌が配られる

新規で卓を立てる場合には場所決めをし、座る位置が割り振られる

約八十センチ四方の正方形の卓を囲むように四人がそれぞれに座る

ゲーム毎に親を決めるのだが親番は全員に二回ずつ回るようになっており

初めの親は「起親」もしくは「出親」と呼ばれる

そしてそこが東西南北の東「トンチャ」ということになり

右回りに「南」「西」「北」と各座席に方角が与えられる

案内された卓に先客がいる場合は欠員の場所に入れられるか

それまで打っていたメンバーが入れ代わってくれてゲーム開始となる

開始とともに伏せられた牌をめくり配牌を確認する

十四枚の牌を「役」と呼ばれる決められた形に揃えるのが麻雀の目的であり

アガりは四人のうちで一番早く達せられた者にしか訪れない

持論だが、麻雀で一番高揚する瞬間は

この牌配をめくる瞬間なのではないかと思う

ましてや赤入り麻雀だとその興奮は倍増する

「牌配に一喜一憂するな」とは先人の教えであるが

まるで誕生の時のように世界が肌に触れる純粋な緊張感がある

もちろん牌勢の善し悪しによる感じ方の差はあれど

それがどんなクソ牌配であろともやはりあの感覚はなくならない

牌配を取りそこから完成系を想定し

相手(麻雀では他家という)の手組と打点を想定しながら

一牌ずつツモり残す牌と捨てる牌を選択する

それはそのまま出会いと別れの比喩となっていて

理想の如何にも関わらず時と共に組織は変化を余儀なくされる

新しい可能性と放銃のリスクを天秤にかけながら

取捨選択はとどまることを知らずに進んでゆく

どんなに自分の手が高打点であろうと

プロも舌を巻くような流麗な手組であろうと

他家のチンケなアガリに先を越されてしまっては

それまでの努力や忍耐が日の目を見ることはない

負け惜しみとばかりにアガれもしなかった手配を開示したり

他家のアガリを批判したりするのはマナ悪といって

麻雀三大タブーの一つと数えられてしまうほどの愚挙とされる

どのような競技であれ

極めるほどに勝負は自分との闘いへと推移してゆくものだが

麻雀も多聞に漏れずまさにそうで

特に麻雀は所詮遊戯であるが故

自分との向き合い方だけでなく

金銭感覚を軸にした社会性、複数人と一定の時間を共有する社交性

それらを複合した精神力及びバランス感覚が試される舞台なのである

ゲームそのものが洗練されているのもあり

場を制するには五感をフル稼働させた集中力が必要となり

のめり込むほどに脳は興奮状態となる

腕の立つ者同士で卓を囲めば相乗効果により

一打一打の打牌から澱みが消え去ってゆき

ビンテージのラディックをリムショットさせたような

鼓膜を面全体で揺さぶる乾いた牌の音だけが天井を抜けてゆくのである

東から太陽が昇り

南の空を揺蕩い

西の海に落ちる

北の地平は受け入れるが如く黙し

ジリジリと自転する大地が方位を変えてゆく

その理に説明がいらぬように

人は河に牌を並べてゆく

水が満ちれば場は流され

新しい季節が過ぎ去った季節を愛でるかのように

賽は振られ

一枚ずつ牌は再び配される

麻雀のルールに時間という概念は組み込まれていない

そこではただ物質の流転に合わせて

時間が付随しているだけだ

私たちはそれぞれ肉体を有してはいるが

肉体はもはや方位の比喩でしかなく

護るべきものがあるとしたら

ただ見つめるという行為のみである

見つめることの先に手があり指があり

感触の後に判断があるのである

喉が渇けば梅コブ茶をすすり

腹が減ればペヤングを食する

だがそれは麻雀外の事象であり

肉体を保つためだけの行為であると知って然るべきである

そこに得る物があるとしたら天運地運と称される

己にまつわるエネルギーの澱みを

森羅万象とどのように関わらせてゆくかを推し量り

卓外に戻った折の指針の一つにすることぐらいではないだろうか

肉体が麻雀と緊密にいられる時間はおおよそ四時間である

と知りつつも八時間、十二時間という四の倍数が誘引する場の磁力

できることなら一定の状態を強要されるリスクを振りほどき

それぞれが形成した安楽の地へと帰するべきである

精神は時に横暴である

故に肉体と精神のいずれかに優位性を与えるべきではない

と俺も考えなくはなくなった



明け方の空には金星が輝いている

新聞配達のバイクの音

始発電車の気配

日の出の直前が

もっとも冷え込む時刻である

鼓膜の奥底に響く牌の音が

眠りを妨げている

もしくは

深い眠りへと誘っている





これをもって詩篇麻雀論考とする

二〇一九年〇二月一七日(日)

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