109シネマズプレミアム新宿にて「ラストエンペラー」と「Ryuichi Sakamoto:Playing the Piano 2022+」を観賞。ラストエンペラーは、上映当時しばらくしてレンタルビデオで観た以来だった、いつ頃だろう。中国最後の皇帝(溥儀)の生涯を描いた長大な作品で、観てまず思うことは「よく作ったなぁ」という感想。内容、展開、トーン全てが重厚で、いわゆる映画館で観る映画。家とかましてやスマホ環境だと集中して観切ることも大変なんだろう、ってか無理だろうな3時間。昨今ではメディアが進化(細分化)して、作る方がそっちに合わせて形を変えていくことも自然だけど、関わる者として「それってなんなんだろう」って気持ちになる。その昔(今じゃ当たり前だけど)、レコーディングの最終チェックをイヤホンでする流れが生まれた。理由は簡単で世の中の大半の人がこれで聴くから。スタジオの大きなスピーカーでチェックした後に、解像度の低い民生機器で確認する。行程としては理解できるけど、いつしか、イヤホンで聴いて良ければ良いって判断も少なからず生まれてきて、その背景には「解像度の高い再生環境で音楽聴く人いないでしょ?」という心理が含まれている。売れるということにおいては矛盾のない思考のようだが、売れるってつまりチヤホヤされるとか金が儲かるとか、物作りの動機としてはだいぶ軽い。これちょっとややこしいのが、軽いことは決して悪いことでなくて、個人的には分かり易すぎて逆に分かりづらくて面白くない。行きがかり上「分かる」という言葉を使ったが、「分かる」ってことにも注意が必要だ。最終的には限りなく「分からない」ものに近づくべきだし(大きくは客観的に)、根本的に分かってしまうことの退屈さはもちろん前提のことでもある。うん、もうちょっと慎重に言葉を選べばよかったな、後悔。「分かる」ということと「理解」と「感じる」と、この場においての意味の定義をしっかりしないと、一見支離滅裂になってしまうよな。せっかくなんで大きくまとめると、両作品とも志の高い映画館で観るべきものだった。ちなみに後者は、映画としての志というよりも、ライブそのものの志を映画で頑張って引き取ったという構図。ラストカットでバンバンがポップコーンの箱をガラガラ鳴らして、映画の中に行こうとしてた。俺はもうおしっこがしたくてそれどころじゃなくて、その時に拾えなかった。雨の歌舞伎町は、ほぼ外国。