ヒロユキと連れ立って久しぶりにフットサルへ。いつもより早く着いたら誰もいなくって「ごめん、今日なかった、どうしよう?」と汗をかける格好をした中年二人で途方に暮れた。このままジョギングでもするか、この際だから気になってる映画でも観るかとか言い合いながら駐輪場につくと主催のタケイちゃんがスーッとやってきて「今日あるよー」とのことで難を逃れた。今「難」って記したけど、実のところそんな風には思っていなかった。このあてが外れてポッカリと空いた時間が俺は好きで、そんな時にしこたま詩を書いてきた。詩は書こうと思って書けるものでもなく(ある段階までは書こうと思わないと書けない)、このモラトリアムな時間は、詩の観点からいうといわゆる「整ってる」状態なのだ。難しいのが、フットサルがなかったと思ったことは本心ではちゃんとがっかりしている。けどその本心とかはけっこうどうでもよくて、それよりも奥に蠢いている感覚の方がいつだって優位だ。言うなれば本心と思ってる意識なんて表層的な反応でしかない。ちなみにこの話、詩って良いよねっていう手前味噌なことを言いたいのではなく、その時の状態こそが「生きる」ことそのもののような気がしているってこと。詩を書いているとあらゆる私的な感覚がなくなっていき、爪先から登頂まで絵でかいた磁気みたいにバババって世界と繋がれる。ブラジルの蝶の羽音まで聞こえるような。これ比喩のようでいてあながち比喩でもない。実際、羽音は聞こえなくても、そこにあるリアリティを否定できない。だってあるんだから。結局あったフットサルはいつも通り和やかで、自分が老いたことを適度に感じさせてくれる良い強度で終えられた。その後の外苑前だと思っていた打ち合わせが代々木八幡で、これまたポッカリ空いた三十分で朝日屋に駆け込み蕎麦を食べた。こんな風に食べる蕎麦はそりゃ美味しくて、並んだ自転車で行く町の景色はモラトリアムの象徴でもある行きたくて行ってるわけじゃない学生時代に見たそれと同じトーンだった。さっき手に取った國分功一郎の新刊に書かれていた「浪費」と「消費」の差異についてが興味深い。デビューの頃から一貫してこの人の主張には大きく賛同できる。同じクラスにいたら、登下校の自転車で同じ景色を見られただろうか。