帰宅したフラットのエントランスに落ち葉が雨で濡れて一面だった。もうそこに秋が来ているのだな、というか、もはやそれは冬の様相だったことを後で思い起こすのだが、あの時遭遇したのはまぎれもない秋で、秋はなんというか出会うものだなと感じていて、それが意味することは、秋とは自覚のことなのかもしれない。基本的には夏が好きだが、春と秋も好きだ。一番好きな季節は五月で、五月はもう春ではないし、梅雨前だとすると五月に季節はない。きっと俺が遭遇した秋は、冬になる前の名付け得ぬ季節だったはずで、雨に濡れた落ち葉には功罪があり、なぜ功罪と思うかと言えば、全くあの瞬間を責める気になれないからだ。季節の移り変わりを未だに信じきれていない節があり、それは正しいことだと四十になり迎える霜月の終わりに思う。